その一年前、私は東京で韓国人の女性と知り合った。彼女はアラム・ジュン、正しくはチョン・アランと発音することを後から知った。当時、ソウルで The Book Society という、出版も兼ねる独立書店でマネージャーをしていると言っていた。彼女が働いている本屋を訪ねてみたかった。それから、私の中に芽生えつつあった韓国への関心と、少しずつ増えていく、韓国をとりまく生身の断片を抱えて、自分の目で、韓国を見てみたかった。
友人と三人思い立ってソウル行きの手配を始めた。当時は丁度、北朝鮮のミサイル発射で日本中が大きく騒いでいた頃だった。ソウルへの旅行者は激減し、旅費は大幅に下がり、そんな中、今がチャンスとばかりにこぞってソウルへ行く動きも一部あることを聞いていた。恩師と話した時、もうすぐトランプが北朝鮮と和解して、世界中にアメリカの力をアピールしようとしているから、そうしたら南北が和解して旅費が戻る、行くなら今のうちだ、というアドバイスを貰った私たちは、年末で世間が大忙しになっている平日四日間を利用して、ソウル行きの手配を済ませた。三泊四日、航空券とホテル代セットで二万円代という破格の値段だった。友人の一人は情勢が危ないと母に大反対されたという理由で、行くのをやめてしまった。
2017年12月13日、私と友人は成田空港で落ち合った。直前まで仕事と展覧会の手伝いとで毎日ヘトヘトだった私には、アランさんへ英語でメールを送ることへのハードルが高く、出発の前夜にようやくメールを送り、返事を受け取れないままソウルへと飛び立った。
ソウルは東京より緯度が高くとても寒いと聞いていた。東京で日中の気温が7度だった同時刻、ソウルはマイナス7度だと知り、未知の寒さに警戒した私たちはもこもこに着込んで仁川国際空港に降り立った。そこから電車と地下鉄を乗り継ぎ、宿泊予定のホテルがあるチョンニャンニへと向かった。チョンニャンニはソウルから地下鉄で30分くらいの位置にある。昔、ソウルにお城があったとき、東門の外側に位置する、薬草を専門に扱っていた地域だったらしい。
チョンニャンニに到着したのは夜八時くらいだったろうか、地下鉄から降りて外へと出ようとする私たちをすごい冷気が迎え撃った。冷凍庫の中にいるような、東京とはまるで質の違う寒さに鼻から脳みそへと冷気が通り抜けて行く。左右どちらの出口から出ようか惑う私たちに、初老の女性がにこやかに英語で話しかけて来た。「ホテルの場所はわかる? ああ、これならここをずっとまっすぐ行って、そしたらフラワーホテルにたどり着ける。あなたたちの幸福を願っています。」と、キリスト教関連の冊子を手渡された。
外に出ると、大きな道路が交差する脇道にたくさんの屋台が出て賑わっていた。歩道や屋台の脇には雪や氷のかたまりが押し寄せてある。行き交う人の熱が勢いが、なんだか日本とは違う。歩いていくと、歩道には凍った魚が台に並べられて、無人でそのまま売られている。欲しかったら向かいの店の人に言えということらしい。
大通り沿をしばらく歩いた私たちは無事、フラワーホテルに到着した。部屋の中はオンドルで床がとても暖かく、すぐに外の寒さは忘れてしまった。そうしているうちに、アランさんから返事が届いた。「わお! 本当にソウルに来ているの? 私は明日も明後日も本屋にいます。」「じゃあ、私たちは明日の夕方、そちらに向かいます。」そう返事をして、1日目は眠りについた。
翌朝、朝早く起きて、出発の準備をする。この日は日本で出発前に申し込んだツアーに参加する予定にしていて、ロビーで迎えを待った。朝鮮半島の38度線、韓国と北朝鮮の境目である非武装地帯へむかう、DMZツアーだ。日本の友人が韓国へ行ったときに参加したという話を聞いて、興味を持った。インターネットで調べると、いくつかの会社が主催しており、中には脱北者と行くDMZツアーなるものがあって、申し込んだら定員割れで断られてしまった。38度線を境に北3kmと南3kmが非武装地帯となっていて、ここには外国人の立ち入りは可能だが、韓国人は入ることができない。第二次世界大戦にかけて朝鮮半島を占領していた日本領をロシアとアメリカが制圧するために引かれた境界線を境に、韓国と北朝鮮はいまだに休戦中だ。
待っていると迎えが来て、ソウル市内のホテルで他の外国人観光客と合流して専用のバスに乗り込み、出発した。北へ北へと走って行くと、川沿いには有刺鉄線が張られていて立ち入れないようになっていた。北朝鮮から韓国の方へと流れ込んでくるイムジン河だ。等間隔に詰所があって、軍人が守っている。38度線の3km手前にはゲートがあって、軍人がパスポートをチェックしていく。ゲートを越えると、畑や山などのある一帯を縫うようにバスが走って行く。ぽつりぽつりと家や学校のような施設が建っていて、そこには今も人が住んでいる。朝鮮半島が南北に分割されるその前からずっとそこに住み続けている人の暮らしがまだ、そこにはある。
私たちは北朝鮮軍がソウルに攻め入るため極秘で掘っていたという地下トンネル、第三トンネルを見学し、北朝鮮の大地を一望できる展望台を見学した。韓国側の展望台からは、大音量でR&B風の音楽が流されていた。北朝鮮側には大きなビルが見えるのだが、ガイドさんに聞いたところ、あれはあんなに大きなビルを建てるだけの力があるのだと誇示するためのフェイクだと言っていた。こうやって北と南はお互いに牽制しあっている。
非武装地帯にはTシャツやなんかも売られていて、もはや観光地のような雰囲気もあった。私は父へのお土産にと北朝鮮産のワインを購入し、ソウル市内へと戻った。ガイドさんによれば、北朝鮮のミサイル発射は韓国人にとって、日本人が「震度3の地震がまた来た」と思うくらいの感覚でしかなく、誰も怖がってはいないという話だった。
ソウル市内で遅い昼食を食べた私たちは、その足で The Book Society へと歩いて向かうことにした。若者でにぎわう繁華街から大通りへと抜け、現代的な作りの市役所や、立ち並ぶビルなんかを一つ一つ目にしながら、すべてが日本とは違う様子に見入ってしまう。まず文字が全然読めない。それから、日本よりずいぶんくだけたラフな感じがする。歩けば歩くほど刻々と風景が変わって行って、全てが面白い。それから、山。ソウル市のすぐ背後には高くとんがった山々がそびえ立つ。私たちはコーヒーショップでひと休みしたり、またぶらぶら歩いたりしながら、大きなお城のすぐ脇にある The Book Society にとうとうたどり着いた。
一階のビルの入り口に出してあった、板と木片をつないで独立して立つようにしつらえられた看板を横目にビルの二階へと階段をあがっていくと、ドアの前には適度に適当にチラシが置いてあったりポスターが貼ってあったりする。
「なんだか路地と人に似ている・・・!」
親近感を覚えながらドアを押し開けると、そこにはカタログや、美術書、日本のデザインの雑誌なんかも置いてあって、日本でいえばナディッフのような、そんな雰囲気の空間が広がっていた。
私はレジカウンターに座っていたアランさんをみつけて、声をかけた。防寒スタイルで帽子をかぶり込んだ私の顔がわからなかったようで、彼女は一瞬きょとんとして、それから、ああ、と驚いた顔をして立ち上がった。
「わたしは、チョン・アランです。」アランさんは覚えたての日本語で友人に挨拶をして、用意してくれていたケーキとお茶を出しながら、「いま、忙しくて、食べ終わったらここで梱包作業がしたい、オーケー?」と聞く。私たちは「オーケー」と言ってケーキを食べながら色々話した。アランさんが年末でこの書店を辞めること、DMZに行ってきたこと。
ひととおり店内をくまなく観察して、ぶらぶらしている私たちとアランさんは夜ご飯を一緒に食べることにして、私たちはぶらぶらと閉店時間を待った。閉店間際に彼女の友人が二人現れて、近くでギャラリーをやっているが、ショップカードをわすれた、と言った。別れ際に片方の女性が携帯を見せてくれたので覗き込むと、「またね」と、日本語の翻訳表示がされていて、私たちはふふ、と、顔を見合わせて笑って、そして別れた。
アランさんと一緒に行ったお店は、若い層の人たちが集いそうな、ちょっとお洒落なカフェだった。キムチとかチジミとか、いわゆる唐辛子たっぷりの韓国料理といったイメージからは程遠く、私が頼んだエビフライの乗ったカレーは、やさしい味わいで日本のものと変わらなかった。トイレの場所を聞くと店外だというので行ってみると、ビルのエントランスを入ったところに腰ほどの高さもないドアがついていて、開けるとそこからすこし階段で降るような不思議なつくりになっていて、上から下がった紐を引いて水を流した。
私たちは夕飯を食べながら、一生懸命英単語を並べながらたどたどしく話し、そのあとコーヒーショップに入って、大きなカップで出てきた、泡がたっぷりの甘いカフェラテを飲みながらまた、一生懸命英語で話した。
帰り道、果物屋の前を通ると、ソウルの至る所で見る熟塾に熟した柿がそこにも並んでいた。「こういう柿、よく見るね、日本にはない。」とアランさんに言うと、「食べる? 買ってあげるよ、プレゼント」と言う。熟した柿にひるんだ様子の友人がとっさに「私はいちごがいいな」と言い、アランさんは、1パックに8個ほど詰め込まれた大粒のイチゴを買ってくれた。
私たちは地下鉄に乗り込み、実家に住んでいるという彼女と途中の駅で別れた。ホテルに戻ってイチゴを食べると、見た目は日本のイチゴとなにも変わらないのに、口に含むとサクサクして、不思議な食感がした。
三日目、なにも決めていなかった私たちは、泊まっているホテルが薬草街に近いこともあり、歩いて行ける距離にある薬草博物館を目指した。途中、大きな市場に出くわした。ブースブースに魚介物が山盛りに置かれていて、カキの山、いりこの山、山から山へと目を移して先へ先へと進んで行くにつれ置いてあるものがどんどん変わって行った。とても大きな市場だった。青菜の一角があったり、もやしのようなものがカゴに入れられ、ただそれだけを扱う店がいくつも並んでいたり、地べたにどっかりとにんにくの大きな束がたくさん置かれている一角があったり、それから角を曲がると、いわゆる漢方で使われるような薬草が山積みになっている一角があったりした。
市場は屋根に隠れて日陰になっているところが多く、とても寒かった。氷点下の気温の中、人々は店を出し、店の奥で熱々のチゲを食べている。市場に来ている人は高齢の方が多く、ごったがえし、とても活気があった。ソウルに足を踏み入れてからずっと感じていたけど、おじいちゃんおばあちゃんがとても元気だ。
人をぬって歩いていると、前からズッズッと募金箱を押しながら進んでくる人がいた。募金箱にはラジカセが備え付けられ小気味好い音楽が流れている。押している人は立てないのか、体を銀色の断熱シートのようなものでくるみ、地面に横たわった姿勢のまま、募金箱を前に前に押しながら進んでくる。五十代くらいの男性に見えた。人々は賑わいながら、男性を追い越したり、かわしたりしながら進んでいって、私たちも、男性を横目にすれ違い、先へ先へと進んで行った。
市場を後にして薬草博物館へ行き、喫茶店で生姜の入ったお茶などを飲んで温まった。外へ出て歩くと、薬草専門の個人商店が続いた。すこしすすけてガランとした様子が、韓国映画でよくみる風景と同じだった。
「韓国に有名な楽器ビルがあってさ、そこの脇に緑色の屋根の、地元のおじいさんしか行かないような店があって、そこではキムチとかに使うような白菜あるでしょ、あの切れっ端のゴミ、それだけを使ったスープだけを出してる店があって、すごい安いんだけどすごい美味しくて、あの味が忘れられないんだよねえ。」
日本でそう教えてくれた友人の言葉を頼りに、とくに行き場のなかった私たちはそこを目指してみることにした。ホテルのある街からはそんなに遠くなかった。楽器ビルは旅行のガイド本に載っているくらい有名なビルで、私たちは簡単にそこにたどり着くことができた。その楽器ビルに向かって左側はビル街といった感じで、コーヒーショップやおみやげ屋さんなどが並んでいた。反対の右側に回ると、確かに緑のテントのような屋根をつけた、地元の人しか行かないような小さな店がいくつか並んでいた。一軒は、果物屋。あと三軒は飲食店。でも、見るからに豚肉料理店で、三件とも店先に調理中の豚の頭が置いてあったりした。
地元感漂う店の雰囲気にひるみ、引き返そうかどうしようか悩んでいると、一番奥の店の入り口の前で、腰丈くらいの四角いビニールテントにはまり込んで座っていたおばあさんに手招きされ、私たちはすこし迷って、それから思い切ってその店に入ることにした。
小さな店内には青年のグループや、おじさんたち、それから中年の夫婦が隣に座っていた。お店の人に英語が通じる様子もなく、メニューはすべてハングルで書かれていて、読めなかった。メニューは三つしかなく、それぞれに大、中、小があるんだな、というのは値段の表記で見当がついた。「じゃあ、これと、これ、それぞれ中で。」と言うと、隣に座っていた気の良さそうな夫婦の男性の方が、「いやいや、こっちを頼まなくちゃ」とおどけて言うので、じゃあそっちで、と言って、変えてもらった。
すこし待っていると、豚のあらゆる部位をただ煮込んだ大きな鍋と、豚のあらゆる部位をただ茹でたものを並べた、大きなお皿が出てきた。料金はそれぞれ千円ほど。味はついておらず、自分で塩や薬味を足しながら食べるという、完全なる地元スタイルだった。始めこそめずらしく、美味しく食べていた私たちだったが、ひたすら肉だけを食べ続けるのには限界があり、半分も食べきれずに残してしまった。店を出て、テントに座るおばあちゃんにお金を渡して、「ありがとうございました」とお礼を言って、地下鉄に乗ってホテルに戻った。
四日目はもう東京に帰る日だった。チョンニャンニの駅前から空港行きのバスが出ていたのでそれに乗り込んだ。そこからの記憶は、ほぼない。
日本に帰ってから、市場で買った乾燥ナツメをお土産に持って恩師の家を訪れたとき、どこに泊まったの? と聞かれてチョンニャンニですと言ったら、「そこは昔、娼婦街だったところよ。日本人わからないから、そういう安いところに泊められるのよ。」と教わった。後で調べると確かに昔、娼婦街だったようで、私たちが泊まったホテルから駅を挟んで反対側に、そういう店がずっと並んでいたんだということを知った。
いまでもあのサクサクとしたイチゴの食感を時々思い出す。あまりに楽しかったので、記録しておきたいなとずっと思っていて、思い立って、思い出しながら日記を書いた。私は今週末、二年ぶりにふたたびソウルへ行く。
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