昨日は上映会で映像を見た。秩父の村の子ども達の誕生から成長の過程でおこなわれる通過儀礼を記録した、40年前くらいのドキュメンタリー映像。誕生して、成長する過程でおこなわれる数々の儀式や、祭りへの参加など、子どもはもちろんその成長に付き添う大人も、決まった時期になるとあれやこれやと決まった行為をおこなっていく。その映像をぼーっと眺めていた私は、やる事多いなーと思いながら見ていた。
人間の社会にはやる事が多い。家族や村の中で節目節目でとりおこなわれる儀礼は、それをおこなっている人々の中に、ある運動と時間を生み出しているように思えた。なにか分からないがする事やそれをする時期が決まっていて、みな何かの役割を担っている。それは会社に勤めたり、ある社会的なモデルに従って時間を過ごすという事にも似ていて、会社からも村からも家族からも外れて、いま、ぽっかりとした時間の中に居る私は、ただの生き物みたいな感じかな、などと思った。
木の事を時々考える。
私が毎日毎日どこかに通ったり、なにかあたらしい事を経験したり、あたらしい人と出会って面白いと感じたり、苦しいと感じて家から出たくなくなっている時も、ぴかぴかに晴れている今日のような日も、長く雨が降り続く日も、オリンピックで浅田真央ちゃんがメダルをとったり、物騒な方向に政治が進んで、自由を奪われていく感覚を人が感じている時も、私がここに住む前から、いまも、ずっと一つの所に立ち続けている木の事。
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